「地球星に遊ぶ」ってどういうこと?(筆者自己紹介)
みなさんは、自分の指先が何でできているか、考えたことがありますか? 私は十代の頃、よくそんなことを考えた。右手の指先でキツネの形をつくったり、五本の指をヒラヒラと動かしながら、けっきょくこれも地球星の星くずでしかありえないんだなあと思ったり。だって、私の体だけが、岩や水や木々とは違う別の何かでできていて、この星の星くずから生まれ出たのではないって、ありえないもの。火山の溶岩と同じように、地球星が“私”をひねり出したんだわ。
そう思っていたせいか、私はこの地球星が大好きで、限りなく愛おしく、いつも星ごと抱きしめたいと思い、また抱きしめられていると感じて生きてきた。75歳になった今、この50年を振り返ると、地球の様々な姿を追い求めて、世界中を駆け巡ってきたようだ。
最初の旅先は革命直後の、人々が楽し気に踊りまくっていたキューバ。美しいバラデロの海で、27歳の私は初めて泳ぎを覚えた。南の海の水に体を浮かべて、見上げる空は真っ青。ああ、海に抱かれて浮かんでいるのもいいなあ。
30を迎える時、一番やりたいことは何だろうと考えた。今まで経験したことのないこと、それは自分の体から、新しい生命を生み落とすことだと思った。当時私は、あるTV局でディレクターをしていたのだが、子をつくり、お腹で育て、生み落とし、乳を飲ませて育てるというすべてを、他のことに気をそらさず力いっぱい受けとめてみたくて、さっさと退職してしまった。
男の子が生まれ、「ああ、私はほんとに生き物なんだわ!フギャーフギャーと泣いているこの子も生き物!」と痛く感動した。地球星をともに根城にしているゾウやライオンと人間も同じ生き物なんだわ。
その子が生まれて1ヶ月で、病名のわからない病で死にそうになった。病院に行っても、彼は保育箱の中で、抱くことも、乳を飲ませることも出来ない。 帰り道、晴れ渡った空を眺めながら私は思ったものだ。「あなたに、この美しい地球を見せたかったの!」
幸い手術を受けて彼は回復し、元気に3歳を迎えた時、私は自分を子離れさせる時だと感じて、一人インドに旅立った。
1977年のインドの貧しさ!カルカッタ(現在のコルカタ)に降り立ち、タクシーで街の中心部に行った時、私が見たものは、歩道いっぱいに溢れんばかりに暮らす路上生活者たちの群れであった。大人も子どもも老人も、道にぺたりと座り、寝転び、道から30センチほど突き出た水道の水で生活の一斉を行っていた。飲む。煮炊きする。洗濯する。水浴びする……。誰もが私に向かって「1ルピー!」と手を出す。当時カルカッタの人口の4分の1、200万人がこうして暮らしていた。
同じ年の暮れ、夫がニューヨークに転勤になり、4歳の息子を連れて私もニューヨークに渡った。4歳の息子は、初めて近くで見る黒人、白人、褐色人等々にびっくりして、私の手を握りしめていた。私もマンハッタンの街角で道行く人々を眺めていて、思ったものだ。「ああ、人間も犬と同じなんだな。毛の色も肌の色も様々な種類があって、あらゆる雑種があるんだな。面白いものだなあ」と。
ところが、ニューヨークに着いて3週間後のことである。朝起きたら背中いっぱいに赤い発疹が出てかゆくて仕方がない。早速医者に行くと、大学病院の皮膚科に回され、組織検査、血液検査の結果、私は死の病であると宣告されてしまった。病名はペンフィガス・フォリアセウス。ラテン語名を知らされても、何のことやら。体の皮膚が表皮も内蔵の皮膚も自滅していく病気だという。治療法はなく、とりあえずステロイドを大量服用し、それでダメなら抗がん剤を使うという。死は時間の問題だから、今日体調が良ければ行きたい所に行きなさい、とにかく治る人はいない病気だからとドクターフェルナーは言った。
2年間ステロイドを大量投与されたあげくニューヨーク・ホスピタルのイラン人の皮膚科部長は「あなたの場合は誤診だった」と言った。「なぜなら、病気が進行しないから」
ステロイドをやめて3ヶ月、少し体調が良くなった頃、アメリカ人の友人に「マンハッタンの禅寺に坐禅に行こうよ」と誘われた。気が進まなかったが、とにかく行ってみると、坐禅は、まるでアメリカの大地の上に坐っているようで、深い宇宙体験に誘われそうな感じで、「いいな」と思った。わずか数ヶ月だったが、坐禅を重ね、私は深い深い坐禅体験の後、人生観がすっかり変わってしまった。
「こんなことって、あり?」その夜、あまりの不思議さに、私は起きたことをすべてメモにとった。
「……と、突然、頭の中に光がきらめいたと思ったら、私がこれまで考えたこともない、ある思想が、ダーッと一気に転がり込んできた。
時はないんじゃないか、とか。
あなたは私である、とか。」
そんなこと、一度も、チラッと考えたこともないことばかりだった。
「これが最後とか、最初とか、そんなものはないんじゃないか。時というものは、けっきょくないんじゃないか。
坐禅をしていると、ふっと肉体を忘れる感じがする。あの肉体を離れた意識としての自分は、宇宙そのものの意識なのではないか。
けっきょく、あなたも私も、まったく同じ、同一の意識を持った人間なのですね。
生きとし生けるもの、みな一つ。草も木も、一つのいのち。」
アメリカから帰国後、私は人生の意味を根底から見直してしまっていることに気付いた。人生は、宇宙の中での人間のいのちの意味をわかるためにあるのだ、と思った。
40代なかばで、何となくうわべだけ調子を合わせてきた夫と離婚。真剣に向き合い、お互いにわかり合えると感じた今の夫と再婚。一緒に坐禅をしながら、未来を目指した。
と、不思議なことが起こった。原稿を書こうと原稿用紙に向かったのだが、なぜかこの時、テープに吹き込んだ方がいいと感じてカセットレコーダーを回した。
「夜が明けるのは時間の問題です……」小さな声で、私はしゃべり始めた。これ何?と心の中では疑問符だらけなのに、ゆっくりと私は語り続ける。「あなた方はもう準備されているのです。美しい朝はそこまで来ているのです……」
1986年7月から9月にかけて、ほぼ毎週1回、私はテープを回して、感じている言葉でないエネルギーを、日本語に通訳する感じで語り続けた。文字に起こすと1冊の本ほどの量があり、このメッセージは「光の歌」と名付けられていた。
エネルギーの発信元によると、これは、かつて地上に生き、今、天上(霊界)にいる多くの人々から、地上に生きる人々へのメッセージだという。内容は、人類史の今までの時代は夜に例えられ、近々、人類は地上の人々も天上の人々も、ともに朝の時代を迎えるというものだ。
「?」 これって何? 天上(霊界)のことなど、今の今まで考えたこともなかった私は、大いに当惑した。しかし、内容はとても一人の人間が考えつくようなものではなかったし、自分自身が通訳したという体験は否定のしようもないものだった。
その後、私たち夫婦はある人の勧めで、朝になった地上の小さなモデル空間を公園の形でつくろうとした。が、バブル崩壊に出会い、銀行はつぶれ、スポンサーも倒産してしまった。それでも私たちは、少しのお金でさわやかな空間をオープンした。が、私たちの私財などわずかなもので、5年後には資金が続かず閉園した。
朝のモデル空間をつくるというのは、「光の歌」を送ってきた天上の人々の示唆だったので、1999年、公園がつぶれたことで、私たちは「光の歌」もその送り手たちのことも信頼できなくなってしまった。
東京に戻り、夫は元の仕事に復帰、息子はバイク便の運転手というアルバイトを見つけ細々と暮らし始めた。ほんとに全財産を公園に使ってしまったので、60歳を目前にゼロからの出発になってしまった。
その上私は、重度のステロイド糖尿病になっていると判明。左右両眼とも網膜の手術をし、右眼は失敗、幸い左眼は回復し、その後ずっと左眼だけで暮らしている。
それでも2003年、夫は自分の事務所を開設して独立、息子はバイク便を始めて半年後、縁ある人の投資を得て、ITソフトの会社を設立。その後二人とも順調で、波瀾万丈の人生も、60を過ぎて、豊かでおだやかなものとなった。
で、私はまた旅に出た。イタリア、フランス、シルクロード、ギリシャ、トルコ、南アフリカ、ジンバブエ、マダガスカル、タンザニア、ボツワナ……。
地球星の上は、旅すれば旅するほどに変化に富み、魅惑的であることがわかる。シルクロードの旅で、パミール高原に足を踏み入れた時、ここが幼い頃からの憧れの地であったことを想い出した。目の前にそびえる、8000メートル級の山々、氷のように冷たく澄み渡るカラクリ湖。湖畔は富士山頂より高く、ガイドにビニール袋入りの酸素を差し出された。
トルコのカッパドキアという所で、気球に乗った。操縦士はアメリカ人のおばさんで、腕もコンディションも良かったらしく、気球はなんと音もなく2500メートルまで上った。その実に静かにスーと登っていく感じで、ふと死んだら意識はこんなふうに天に還っていくのかな、などと思ってしまった。旅の想い出は数限りなく、まさに、地球星に遊んだ感がある。
しかし、2008年のリーマン・ショックを経験し、やっぱり「光の歌」の言っている通りに地上の物事は進んでいるなあと感じて、「光の歌」を少しわかりやすくした「地球星に遊ぶ PART 1」を出版した。
オバマさんからトランプさんへ。ISと各国の戦争。イギリスのEU離脱。日本は?
混乱を極めそうな世の中も、病気も、戦いも、ぜんぶ遊び。泣いたり、笑ったり、激しく揺さぶられたり。それでも人々はみな、地球星の上で遊んでいるってわけ。
人間は地球星の営みの中で、まるで海に浮かぶ一粒の泡のように、ふっと生まれ、またふっと星そのものに還っていく。物質としての人間は、骨になり、灰になり……。
そんなことをしていいのかどうか知らないけど、私の灰は、家の櫟(くぬぎ)の木か桃の木の根元にでもふりかけてほしいなと思ったりする。その木が桃だったら、翌年の春には精一杯ピンクの花を咲かせるお手伝いをしましょう。櫟だったら、秋にどんぐりのような実をいっぱいならせようかなあ、などと思ったり。
地球星と一体の私にとって、死はないんじゃないかな。私と思っている意識だって、実は地球星の意識のほんの一カケラで、私という思い込みの壁を取り除けば、私の意識は無限大となり、いつしか宇宙そのものの意識の中に溶け込んでしまう。
私って、宇宙なんだわ。そして宇宙は時を超え、空間を超え、ただゆったりと息づいている。
プロフィール
板谷 翠(いたや みどり)
1941年 東京生まれ
東京大学文学部社会学科卒業
日本テレビ・ディレクターを経て、エッセイスト。著書に「女でよかった」(面白半分社)「ニューヨークの空は澄んで」(春秋社)「光の歌」(風雲社)「地球星に遊ぶ PART 1」サンデー毎日、思想の科学などにエッセイ多数