#1 はじめに

 30年前、1986年7月2日のことだった。私はエッセイを書こうと原稿用紙に向かったのだが、なぜかふと、そんなことは初めての体験だったが、テープに吹き込んだ方がいいと思い実行してみた。


 考えることをやめて、口に出てくる言葉をつぶやいてみた。「夜が明けるのは時間の問題です。あなたがたはもう準備されているのです。美しい朝はそこまで来ているのです・・・」? これはいったい何? 私は、なぜこんな考えてもいなかったフレーズをつぶやくのか、とても不思議におもった。が、とにかく、私は頭のすぐ上に、白光のような強烈なエネルギーを感じていて、このエネルギーは言葉ではないため、ああ、早く言葉化しなければ、このエネルギーを日本語に通訳しなければと感じ、必死で一言一言しゃべり続けた。


 今から思えば、これは霊界の人々から地上の私たちへのメッセージであった。当時、私は、この白光の送り主はいったい誰なのだろうといぶかった。その気持ちを察してか、送り主たちは、自分たちがかつて地上に生きた人間であり、今霊界人となって、地上の人々に大きな時代の変化が起きることを伝えておきたいのだといった。


 この時のメッセージは、「光の歌」と名づけられていて、「夜の歌」5章と「朝の歌」5章、「昼の歌」3章、「夕暮れの歌」1章という、長い長い内容のものだった。一回に1章ずつ送られ、7月2日から9月7日までかかってテープに吹き込んだ。考えてみればこのテープは今でもとってある。


 「夜の歌」によれば、有史以降、現代までは、宇宙の暦では「夜」の時代であり、やがて、私たちには想像もつかないような大変化が訪れ、「夜」が明け、「朝」の時代が来るのだという。


 「夜」から「朝」への変化の前には、夜の嵐が吹きすさび、地上は大荒れに荒れる。「夜の歌」第2章では、金融資本主義経済の崩壊とそれによって巷に溢れる職なき人々の苦しみを。第3章では、地球温暖化による気候変動、洪水や砂漠化、作物の不作などが人々を苦しめ、さらに地震や火山の噴火も相次ぐと。また、新旧のウイルス、細菌による病気の蔓延への警告。第4章では、多くの人の生命を奪っている中東の戦争、ヨーロッパ各地でのテロなど、人間による暴力がいかに人々を苦しめているかを語り、第5章では、夜の嵐吹き荒れる中で、人間不信、自分不信に陥った人間の絶望感について語っている。30年前、霊界の人々から送られてきたメッセージにある情景は、「ああ、今の時代にぴったり!」と、私を驚かせた。そして、今、もう一度、「光の歌」をみなさんにお送りしようと決心した。


 では、「朝」はどんな時代なのだろうか?


 『朝』の第1章では、人々は一体感に目覚め、戦いをやめて、お互いに愛し合って暮らすようになり、生命(いのち)の喜びに満ちた真新しい、進んだ文化を創造していくという。「朝」の第2章では、地上に「夜」が訪れる前に、森の中で、すべてを共有していた人類の暮らしがあった。一体感を知った人類は、またこの頃のように、土地や財産を、個人が所有するのではなく、みんなで共有し、自然とも調和して生きるようになる。「朝」の第3章では、奪い合うのではなく、たった一つのパンでも、分かち合う喜びを知った人々の生き生きと生きる様が描かれている。「朝」の第4章では、「夜」から「朝」へと旅する宇宙の中の人類の生命(いのち)について触れている。


 「光の歌」の前半は一言でいえば、こんな内容のメッセージなのだが、いろいろ問題があった。1986年に受けたとき、霊界の人々は「2000年には必ず朝が来る」と繰り返し伝えてきた。


 私は、これ以前に、この種のメッセージを受けたこともなく、霊感らしきものも、自覚したこともなかったので、かなり当惑した。「これはお告げとか、予言とかいうものだろうか?」 霊界の人々は、もちろん「神」を名乗ったわけでなく、かつて地上に生きた人間として、夜の嵐で地上の人々が絶望しないように、必ずその後に「朝」が訪れるのだと伝えてあげたいということであった。が、私は「霊界の人々は未来も感じとれるのであろう、この人たちがわざわざウソを伝えてくるとは考えられない」と思ってしまった。


 で、2000年が来ても、一向に世の中変わらず、「朝」なんて来なかったと思ったとき、裏切られ感があった。送られてきた「光の歌」の内容を、そのまま信じて出版したりしたことを、少し後悔もした。そして、人間としてはそれ以上の判断もできず、とりあえず「光の歌」をオクラ入りしてしまった。


 しかし、時とともに「光の歌」は「夜」の嵐の進行状況を、なるほどぴったり言い当てているともう一度思い直した。霊界の人々は、もともと同じ人間なのだから、地上にいないだけ、視野が広かったり、より、未来を感じとれたりはしているけど、完璧に当たるとか、当たらないとか、そういうことではないのだということも、私にはわかってきた。つまり、霊界にいる友人たちからの親切なアドバイスなのだ。ごく最近、私はこう思うに至り、「なんだ、対等な人間同士のお便りなんだ。だったら、今の時代の私たちが必要としている部分だけをとりだしたらいいんだ」と一人納得して、ささやかながら、独自に編集させてもらった。


 1986年、「光の歌」を受け取ったとき、私はこれを、「未来の叙事詩(じょじし)」だと思った。叙事詩というのは、昔、詩作が盛んな頃、ホメロスさんたちが、トロイ戦争やら、さまざまな事実を詩の形で述べたものだ。だから、本来は過去の叙事詩しかないのだが、「光の歌」には未来の出来事を具体的に語った「未来の叙事詩」に思えたのだ。


 30年経ってみると、この間の歴史の流れは、大筋では、この「光の歌」通りに展開している。だったら、彼らが教えてくれた大変化、地上に「朝」がくるというのも、ほんとうなのかもしれない。私はきっとそうなると思っている。私も、人間として地上に暮らしているだけでは、「朝」が来るなんて、考えもつかなかっただろう。若い頃からそういう日が訪れてほしいと、どんなに願ってきたかしれないが、ほんとうに来るとは、なかなか思えなかった。が「光の歌」を読んで、それが2000年に実現しなかった後でも、地球と人類の未来に絶望することなく、今まで生きてこれたのは、「朝」というイメージが私の中で生き続けたからだと思う。


 今、地上はまさに夜の大嵐が吹きすさぶ中。「光の歌」を読んで、一人でも多くの方が、地上に「朝」が来るのだというイメージを受け止めて、希望を持ってくれたら、送り主たちも喜んでくれることだと思う。


 なお「光の歌」は「朝」の時代の後に「昼」が来てやがて「夕暮れ」が来ると歌っている。遠い遠い未来の話。今この時代を生きるのに必死の私たちにとっては、夢のようにも感じられる未来の出来事。でも、「光の歌」は「夜」から「朝」へだけでなく、「昼」そして「夕暮れ」の時の意味を知ってこそ、その全貌が明らかになるのだと思う。人間という知的生物がなぜ地球星に生まれ、死んではまた生まれ、長い旅を続けた末にどういう形で宇宙に還っていくのかを「光の歌」は語っているのだ。


 「昼」の第一章では、これまで三次元空間に縛られていた科学は人間の感性が鋭敏になるにつれ無限次元へと羽ばたき、重力制御さえ可能となる。人々はベスト型の装置を身につけるだけで自由に空を飛べる夢のような時代が到来する。


 「昼」の第二章では、人々は快適な暮らしを楽しみながら、心の重みに気付くようになり、自分の過去の姿を認識することによって、心の重み(カルマ)を解くようになる。


 そして「昼」の第三章では、すべての人々は昔近しい人々を傷つけたとかさまざまな過去世からの心の重みに気付き、自分の姿を深く認識し、カルマを解消して、霊も心も魂も肉体もともに本当に軽くなっていく。


 そして、「夕暮れの歌」で、人類の地球での旅の終わりの時が来る。すべての感情的な濁りを捨て、透明な姿となった人類は、みな一体の生命として、まばゆいばかりの白光となって、地球という星を包む。白光はそのまま生命であり、いつかまたどこかの星の上で生命の営みを始めるかもしれないという。


 なお、「昼の歌」では3000年代、「夕暮れの歌」では4000年という未来の時代が描かれているが、私は霊界の人々にとって、時の流れはよりふんわりとしたたとえ話のようなものではないかと感じている。


 霊界の霊たちはとにかく、物質である肉体を持った地上の人類が、みな一つの生命として、白光となるという思想は、地上に住む今の私たちには考え及ばぬ世界という気がする。でも現代の物理学では、全物質は、最小単位で考えれば「超ひも」という極々小の粒子でできていて、光もやはり「超ひも」でできていると考えられているようだ。とすれば、人間たちが「白光」に還ることだっていつの日か起こるのかもしれない。


 「光の歌」は、霊界の人々から送られた、人類という壮大な生命の旅の意味を解き明かす、驚くような思想である。

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