We, in Africa 4 OUR FRIENDS IN TANZANIA


ハピネスの誕生会目指してひたすらムワンザへ


 2月の寒い日、娘と2人でタンザニアに旅立った。着けば気温33度の真夏! ぬけるような青空の下、海は輝き、ヤシの葉が揺れている。さて、ヴィクトリア湖の畔のムワンザまでは、もうひとっ飛び。約2時間。


 2年前、初めてタンザニアに行った時、ダルエスサラームのホテルのロビーで、すごい正装の親子と立ち話をした。7歳の息子は黒の背広上下に蝶ネクタイ、お母さんも西洋風のドレスに身を固めている。聞けば、息子が描いた絵が全国で2位になり、大統領から表彰されるため、ヴィクトリア湖の畔から、15時間もバスに乗ってやってきたのだという。

 彼女の名はハピネス。息子はイブラヒム。たった10分間の出会いだったが、その後メールでの交流が続き、ついに私たちは彼女の誕生パーティに参加しにムワンザに向かうことになった。10年間もアフリカ通いをしているのに、アフリカ人と対等な友達になることがとても難しかったので、家に招かれて嬉しかったのだ。


 2月21日、ハピネスの家で、イブラヒム、ホープ(娘)、お母さん、叔母さん、妹さんたちと共に過ごしたバースデイパーティ! 家はレンガを積んで壁土を塗り、トタン屋根。水道は屋内に引いてなくて、裏庭に蛇口が突き出ている。屋根の上にはソーラーパネルが1枚。リビングに裸電球が1つ。ごちそうは揚げたバナナ、ポテト、ピラフ、それに庭で遊んでいるチキンを一羽煮込んだものだった。でも、彼女は緑のステキなドレスを着込んで、最高に幸せそうで、息子も娘も超ハッピー! 心に残る一家だった。

 ハピネスの暮らしも日本人から見れば貧しいものだったが、彼女はタンザニア国立公園オフィスで働いていて、月収手取り50万タンザニアシリング(約2万4千円)。1人当たりのGDPが年間4万6千円程度のこの国では、立派な中産階級と言える。彼女自身カトリックの学校で英語を学び、今、2人の子どもも授業は英語という私立に通っている。


 ムワンザ市は巨大なヴィクトリア湖岸にあり、湖を囲んで、ケニア、ウガンダと国境を接し、陸続きではルワンダ、ブルンジ国境近くにあるため、多くの難民が流入し、人口は増え続けている。マーケットに行ってみると、超大勢の人々が集まり、ほとんど殺気を感じるほどの勢いで、あらゆる物を商っている。野菜や魚、クツやカバン、ゴムゾーリ、ブラジャーなどなど、わけもわからぬ喧騒の中で、 売り子のおばさんの眼光は鋭く、その眼は「私だって死ぬわけにはいかないのよ!」と言っているように見えた。ここではカメラを持っていると、ハピネスと一緒にいてさえ危険を感じ、引き上げる他なかった。



ふと抱き合いたくなる人々と出会ったアリューシャ


 所変わってアリューシャ。ここでは前回の旅で曜子が親しくなった“ラマさん”という若者を訪ねた。曜子とラマさんの出会いは空港で隣り合わせておしゃべりをしたほんのひととき。彼が“ラマさん”と呼ばれているのは、日本語を少し話す観光ガイドで、日本人客にそう呼ばれているからだ。本名はラマダニ・ムスヤ。


 私たちはラマさんに「ごく普通のタンザニア人の暮らしが見たい」と言っていた。で、彼は自分のおばあちゃんが住むウンガ地区を散歩しようと誘ってくれた。


 ウンガ地区の道はボコボコで曲がりくねり、時には原っぱのように広がり、時には壁と壁の間を体を横にしてすり抜けるような狭さであった。小さな子どもたちがいっぱい飛び跳ねている。道端で料理してたり、娘の髪を編んだりしているおばさんがいる。曜子が先頭を歩いていくと、不思議なことが起こった。まんまるく肥ったアフリカのおばさんが曜子を抱きしめている! 今ここで出会ったばかりなのに! 曜子も嬉しそうにおばさんを抱きしめている!

 えっ? どうして? まごまごしていると別のおばさんが現れ、左手に曜子、右手に私を抱きしめている。言葉はない。笑顔とハグのみ。“遠くからタンザニアにやってきたんでしょ。大歓迎よ!”と笑顔が語っている。


 人と人の壁が、突然溶けてしまったような、不思議な瞬間であった。道端で突然誰かに抱きつかれたら、それが東京だったらキャッと言って逃げるに決まっている。そんな、見ず知らずの人と、一瞬の間に一体感を感じ合えるなんて、ほんとに不思議な体験だった。


 もし戦場だったら、見知らぬ人は敵で、いきなり言葉もなく互いに殺し合う。どっちの銃が早く火を噴くかで、自分が死ぬか、相手が死ぬか決まる。幸いそんな場面に遭遇したことはないが、このウンガ地区では、戦場と正反対のことを教えられたように思った。


 “みんな一体の人間じゃないの。貧しいとか金持ちとか、関係ないのよ。私たちは物はなくても日々、充足してるから、幸せに暮らしているのよ。日本のあなた方もこういう心で暮らしてね!”と彼らに語りかけられたように思った。

 ラマさんのおばあちゃんは、私と同じ74歳だった。真っ赤なカンガを巻いて、小柄ながら凛と立っている。おばあちゃんの家には一族郎党が集っていて、皆にぎやかに揚げバナナのおやつを食べた。ウンガ地区の人々に私たちも溶け込んで楽しんでいたので、この日ラマさんもすごく嬉しそうだった。


 ラマさんは、キリマンジャロの麓のコーヒー農家や、バナナの林の中で思い思いの彫刻を刻むアーティストの工房へ案内してくれた。工房の壁には巨大な3人の顔が描かれていて、びっくり。

左はタンザニア建国の父ニエレレ大統領、右はアパレルヘイト撤廃を成し遂げた南アフリカのマンデラ大統領、中央はなんと現職のローマ法王フランシスコだった。こんな所でローマ法王に出会うとは! 彼らは、現法王がニエレレさんやマンデラさんと同じく、貧しい彼らの味方だと知っているのだ。タンザニアでは、キリスト教徒とイスラム教徒がほぼ同数。ちなみに、ハピネスはキリスト教、ラマさんはイスラム教だった。



ポレポレの国も高度成長期に


 ダルエスサラームは実質的なタンザニアの首都である。人口400万人。インド洋の良港として長く栄え、今、商業都市として猛烈な勢いで発展し始めているようだ。


 2年前にも泊まったこの国第一のホテルにチェックインしようとしたが、日本で予約してあったにもかかわらず、空き部屋がないと言い、到着後2時間半待たされて、ようやく港の見える部屋に通された。翌朝、食堂に行くと、驚いたことに観光客らしい姿は私たちの他はイタリア人の子ども連れ一組だけで、広い食堂は白黒入り交じったビジネスマンで埋め尽くされていた。

 どうしたの? 2年前にはこのホテルは観光客がゆったりと滞在して楽しめる空間だったのに、今は、朝っぱらから深刻な顔して、大声で商談、商談。むき出しの強欲ぶりというか、絶対譲れないという顔、顔、顔。


 人種はタンザニアや南アフリカ、ケニアなどのアフリカ系。スイスなどヨーロッパ系。インド系など。東洋人は一見少ない。日本人はいない。この国に深く手を伸ばしている中国人は、自前で建てたホテルに宿泊しているのだろう。中国は政府援助で受注した道路や建物の建設にタンザニア人労働者を使わず、全部中国人を派遣し、自前で建てた賄い付きの宿舎に泊めるため、“ほとんど一銭もタンザニアの巷に落としていかない”と極めて評判が悪い。

 低層の建物しかなかったダルエスサラームに、今後、そのシンボルとなるであろう40階建てビルを3棟建てているのも中国である。この夏、完成すれば官庁や外資系企業などが入る。


 去年秋就任したマグフリ大統領は、初代のニエレレ大統領が目指したように貧困対策に重きを置くと言って人々から歓迎された。またマグフリ大統領は、中国からくる偽ブランド商品、とくに携帯電話の偽ブランド品を厳重に取り締まると宣言した。ハピネスもラマさんもタクシードライバーも、会う人は皆“中国製品は何でもすぐ壊れてしまう。安かろう悪かろうだ”と憤慨していた。ホテルの私たちの部屋の湯沸かしポットも一日でスイッチが壊れた。

 話をこの国第一のホテルに戻そう。


 食堂を出て2階のロビーに行くと、“Bank wherever you are”(あなたがどこにいても、そこに銀行がある)というキャンペーンをやっていた。銀行などと縁のなかった素朴なタンザニア人を、まずは貯蓄、やがて金融ビジネスの世界に引き込もうというのだろう。


 タンザニアは貧しいながらも今、高度成長時代に入っている。80年代90年代に低迷していた経済は2000年代に入ってから、6〜7%の成長率を維持し、一人当たりの実質GDPで、2016年4月は2000年の約2倍となっている。そこで、本来“ポレポレ”(ゆっくり)気質だったこの国の人々も、眼の色を変えて、金儲けに走ろうとし始めている。

 ヴィクトリア湖の畔で、9歳のイブラヒムが、誰かの演説を真似たような感じで、“No Money, No life!”と3回も叫んでいるのを見た。私たちは1週間前、妹のホープにバースデイカードを送るついでに、イブラヒムにも花火のカードを送り、“No Love, No Life!”でしょと書いた。


 この国がこれからどんな道を辿っていくのか、興味が尽きない。

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