We, in Africa 3 南アフリカ ありのまま

カラハリ砂漠でオッペンハイマー家の別荘に泊まった!


 東京からヨハネスブルグで乗り換えて、いきなりカラハリ砂漠に飛んだ。8人乗りのプロペラ機を降りると、そこにはあずまやがポツン。天井は一面鳥の巣で覆われ、小さな鳥がそこここに首を出している。人っ子一人いない砂漠。紺碧の空が地平線まで続いている。


 迎えのランドクルーザーに乗り込み、一時間余り走っても、人家もなければ、車にも出会わない。キリンやスプリングボック、オリックスなどが、荒れた大地で草をはんでいるだけだ。


 と、突然、右手の小高い丘の下に、小さな一軒家が見えてきた。あれがオッペンハイマーさんのヴィラ? なんと私たちは、オッペンハイマーさんのヴィラに3泊しようとしているのだ。南アフリカ一のお金持ちで、世界でも10本の指に数えられるという彼ら。人々より100年早く南アのダイヤモンドや金という財宝に目をつけ、採掘の権利をほぼ独占して、一代で巨万の富を作り上げたアーネスト・オッペンハイマー。二代目ハリー。現在は三代目のニッキーと続き、ダイヤモンドのデビアス社、鉱物資源採掘のアングロ・アメリカン社を所有して、世界にその富を誇っているらしい。


 で、カラハリ砂漠のヴィラは、オッペンハイマー・ファミリー所有のホテルの一部で、日本人の私たちでも、電話一本で予約できるという簡単さだ。お値段は1泊50万円也。ただし10人までOK。3食付き、サファリ付きというわけだ。その上、余談だがこの時は2泊すれば3泊目タダというセール中であった。


 さて、沈みゆく夕陽を見ながらのお茶のおつまみは、ヴェジタブル・テンプラ。真っ黒な顔のシェフは日本人好みを意識して、至れリ尽くせり。レンジャーのカイルはアフリカーナー(オランダ系白人)で、砂漠の中のサン族(ブッシュマン)の遺跡を案内してくれたり、早朝にそっとミーアキャットの日向ぼっこを見に連れて行ったりしてくれた。

ミーアキャットは8匹並んで陽を浴びていて、そのかわいらしいこと!


 もう無我夢中でシャッターを押していると、とんでもないことが起こった。一匹のアフリカンワイルドキャットが、突如突入してきて、ミーアキャットを一匹くわえて走り去ったのだ。私たちが固唾をのんで見守る中、ワイルドキャットは、少しずつ、そのミーアキャットを食べてしまった。残った7匹のミーアキャットは互いにヒソヒソ話でもするようにかたまって、様子を伺いながら立ち尽くしていた。赤い砂、砂、砂の荒涼とした砂漠で。ふと見かけた小さな動物のドラマだった。


 ヴィラに戻る道で、ごく目立たないように電柱が立ち、送電しているのだと気づいた。こんな砂漠の真ん中でも、ヴィラは自家発電ではなく、発電所から送電されているのだ。その上、水も地中深く掘った井戸からくみ上げられ、バスタブどころか、満々と水をたたえた大型のプールもあるのだ。WiFiも瞬時に通じ、赤い砂漠の真ん中の自然に溶け込んだヴィラにいて仕事ができる。

 なぜそこまで? と思ったが、オッペンハイマー家のカラハリ砂漠は1000平方キロ、東京23区の1.5倍という広さで、広大な土地のどこかでは鉱物資源開発も行われているのだろう。


 有名なキンバリーのダイヤモンド鉱山で、黒人労働者は人間扱いされず、自分たちの土地を掘らされ、出て来た宝物は、デビアス社つまりはオッペンハイマー・ファミリーに強奪され続けた。各地の金山もまた然り。いわば、南ア黒人の最大の資源を奪った最大の敵とも言えるのが、オッペンハイマー家なのだ。


 一代目アーネストはドイツ生まれの貧しいユダヤ人。17歳でロンドンに働きに行き、1902年22歳の若さで、ダイヤ買い付けにキンバリーに派遣されたのが、彼が南アのダイヤと金で巨大な富を築くようになった、そもそものきっかけ。


 二代目のハリーは、反アパルトヘイト運動の支持者としても有名。ふと頭をよぎったのはアーネストもハリーも、もしドイツにいれば、ヒトラーの迫害を受け、殺された可能性もあるんだなということ。

 戦後生まれの三代目ニッキーは、砂漠のヴィラの宿泊者への挨拶状で、農地や牧草地として荒らされてしまったカラハリ砂漠を自然に還すのが自分たちの使命だと言っている。


 実際、彼らの領地、ツワルカラハリの自然は、驚くほど美しい。


 スプリングボックもセーブルもオリックスも、ヌーでさえ、ツワルでは、たくましく鍛えられた体を持ち、一頭一頭が目を見張るほど輝いている。砂漠の自然の厳しさが、動物たちを美しく磨き上げているのだろうか。


 オッペンハイマー・ファミリーを、南アの財宝を一人占めしたじゃないか、と糾弾する人は、もちろん沢山いるだろう。が、1994年、黒人大統領になったとき、デビアス社やアングロ・アメリカン社を仮に国有化したとしても、その資産や利益が貧しい黒人たちに配られることになったとは思えない。隣の国、ジンバブエのムガベ大統領のように、白人の農場や鉱山などあらゆるものを国有化して、国民にではなく、自分の懐に入れてしまい、国を崩壊させてしまう者が多いのが、アフリカ諸国の現状だ。



マンポコ タウンシップってどんなところ?


 カラハリ砂漠の後、クルーガー国立公園にほど近い田舎町のタウンシップを訪ねた。タウンシップというのは、アパルトヘイト時代(1991年まで)黒人が夜は必ず帰らねばならなかった〝黒人居住区〟である。今では法的には、黒人もどんな高級住宅地にも住めるわけだが、依然として格差は激しく、多くの黒人たちは、昔のまま貧しくタウンシップ暮らしをやめられない。

 ムプマランガ州グラスコップという町の外れに、マンポコ タウンシップはあった。住民は900人。板きれで作った2間程度の小さな家が、そこここに点在している。家には表札はなくて、壁にただ番号が書かれている。227、248、277………。まるで囚人のよう、と私は思ったが、住民は疑問もなく、この番号制を受け入れているのだろうか。


 マンポコ タウンシップの900人の住民のために、電気はまったく配線されていない。グラスコップの町は、小さな町とはいえ、外国人観光客も多いし、有名なホットケーキ屋もある小洒落た町なのだが、道を折れてわずか数キロ走るだけで、夜は真っ暗闇の、900人の住まいが並んでいる。


 水道は配管されているが、広い敷地の道端にわずか5本の蛇口が突っ立っているだけだ。各戸への配管はなく、バケツに水を充たして各々家に持ち帰るしかないらしい。


 トイレも一つもない。幸いコンクリートの町ではなく、自然の中だから、動物のように用をたしているのだろう。仮に誰かが板で囲ってトイレを作ったとしても、汲み取りというサービスもないので、かえって不潔になってしまうという。


 掃除婦のピンキーと庭師のマシアスという夫婦の家を訪問した。351番だ。ベッドルームとリビングらしき2部屋。なぜかキッチンもない。七輪でもあって外で炊事するのだろうか。寒くて凍えそうな日だったのに暖房もない。彼らはニコリともしない堅い顔をして、月に4万円で暮らしていると言っていた。南アの国民一人当たりのGDPはアフリカ一の年間75万円。平均でも月に二人で12万円以上になるから、かなり貧しい方なのだろう。

 が、マンポコの人々が皆暗い顔をしていたわけではない。子どもたちは私たちを中国人だと勘違いしたらしく、遠くでカンフーをして見せたり、大人もカメラを見て、「私たちも撮って!」と楽し気に近づいて来たり。


 その上、丘の上の方に、私たちが〝タウンシップの豪邸〟と名付けた家があった。ママはとてもやり手らしく、満面の笑みを浮かべて如才ないし、子や孫たちも大きな石炭ストーブを囲んで笑い戯れている。ここには 応接セットを入れたリビングもあり、中央に裸電球が一個ぶら下がっている。見ればテレビもある。「電気はどうしているの?」と言うと、「自動車用のバッテリーを使っているの。ソーラーパネルをつける準備もしているわ。」

 確かにどこにでも境遇に負けないで努力して、工夫して這い上がってくる人もいるものだなと思った。教育は10年間無償だが、タウンシップでは多くの小学生は3年を過ぎると学校に来なくなり、不良化してしまうという。ちなみに、この国の失業率は30%。殺人事件は1日平均50人。日本は3人だからすごいなと思うが、この国では自殺者はほとんどゼロなのに、日本では毎日90人が自殺していると聞くと、何とも考えてしまう。


 私たちが見る限り、南アは道も鉄道も電気も水道も、インフラは申し分なく整っているのに、なぜ、全国のタウンシップだけ置き去りにされてしまうのか?


 例えば、オッペンハイマー家は、デビアス社やアングロ・アメリカン社の出資の形で、400億円を超す貧困対策基金を政府に渡しているが、政府はそれを使おうとさえしない。こうしたお金でさえ、貧困対策ではなく、政府高官の懐に消えたり、〝使途不明金〟になってしまうことが多いのだ。


 現在の南ア政府の高官は、ほとんどが元ANC(アフリカ民族会議)の活動家だったのに、1994年、彼らが求めていた全国民による平等な総選挙が実現し、黒人初のマンデラ大統領が就任すると、あっという間に腐敗が始まってしまった。ANCはもちろん貧困救済をスローガンにしてきたのに。



〝一つの国、一体の国民〟 マンデラさんの目指したもの


 大統領に就任後、マンデラさんは貧困救済というとても大事なことに自ら乗り出さずに、閣僚任せにしてしまったらしい。彼は、南アフリカという多民族国家5000万の人々に、〝一つの国、一体の国民〟という意識を植え付けることに全力投球したのだ。対等な人間同志として全国民が一体の心を持つことが彼の念願だった。


 大雑把にいうと、南アは人口5000万人。4000万人は多民族の黒人たち。アフリカーナー(オランダ系白人)が300万人。イングリッシュマン(イギリス系白人)200万人。カラード(混血、インド系)500万人だ。


 南アの現代史は、アフリカーナーとイングリッシュマンの領土争いの戦争と、黒人の奴隷化の歴史だ。


 1985年、収監されて23年目、67歳になったマンデラさんは、当時のボタ大統領の使い、クッツェー司法大臣と、獄中で初めて会談した。これはアパルトヘイトを続ける南ア政府への世界世論の批判の高まりと、黒人の蜂起による内戦勃発の危機に耐えきれなくなったボタ政権が、ついに試みた〝対話による変革〟への第一歩だった。マンデラさんは、この会見を、黒人と白人が真剣に国の未来を語り合う初めてのチャンスととらえた。

 当時南アフリカでは、アフリカーナーが政府閣僚や軍の司令官、警察幹部など政治の中枢を占め、農地の大部分も彼らのものだった。一方、イングリッシュマンは、実業界に君臨し、ダイヤモンドや金の採掘権を独占していた。


 マンデラさんが獄中で政府と交渉を始めてから5年、1990年についに彼は釈放され、翌91年、アパルトヘイト撤廃法案は成立した。これで白人と黒人の間は法的には平等となり、自由も保障され、すべての民族平等の選挙権も確立した。


 しかし。マンデラさんとデクラーク前大統領の4年に及ぶ交渉によって決まった総選挙の内容は、多数党の党首が大統領になるが、内閣は各党の獲得票数による連合政府とするというものだった。しかも、政府が変わっても軍の司令官、国家公安委員長、準備銀行総裁、財務大臣はそのまま留任するとANCは約束した。白人公務員、軍人は職を追われないし、白人農家は土地を取り上げられないし、過去の人種差別の言動をとがめる裁判も開かれないことが、この時点で決まった。


 マンデラさんは、なぜここまでの妥協をしたのか?人権を奪われ、極貧で虐げられ続けた4000万人の黒人たちを裏切っていないのだろうか?


 こんなエピソードがある。マンデラさんが大統領に就任した翌朝のことである。大統領府の白人職員の一人が、当然、退職させられると思い荷物をまとめていると、マンデラさんが来て、「ぜひ、ここに残ってください。あなた方の知識と経験が、私たちに必要なのです。」と言ったため、職員たちは全員、新大統領の元にとどまったという。


 黒人が白人の圧政から自分たちの国を取り戻したとき、近隣の多くの国では、白人の農地や企業をやみくもに国有化し、農業のHow Toさえ失われ、食糧危機に陥ったり、やはり会社経営のHow Toもわからず、倒産に追い込まれたりしている。

 黒人と白人の協力によってのみ、南アフリカの未来はある、とマンデラさんは考えていた。白人が作り上げた国家体制やインフラ、企業、農園を崩壊に追い込まずに、いかに全国民の財産となし得るのか、彼は考え抜いていたのだろうと思う。しかし、マンデラさんはどうも、社会経済問題を自ら解決することよりも、南アの将来に向けて、黒人と白人が一体となって国づくりを進める精神的土台を築きたかったらしい。


 南アの〝対話による変革〟は、圧政から民主主義への鮮やかな転換とたたえられたが、この結果、アフリカーナーとイングリッシュマン、つまり白人の既得権益は温存され、今なお、この国では10%の白人たちが、国の根幹を握っている感が強い。


 しかし、マンデラさんの黒人と白人の融和策が、この国に経済的安定と成長をもたらしたのは事実だ。「あなたたちの怒りはよくわかります。でも、新しい南アフリカをつくろうとするなら、嫌いな人たちとも協力する覚悟が必要なのです。」 彼は4000万人の黒人にこう呼びかけた。〝赦し、対話、和解〟の呼びかけは、南アの黒人たちの心の温かさ、寛容さを引き出した。


 1995年、ラグビーのワールドカップが南アで開かれたとき、ラグビーは歴史的にアフリカーナーのスポーツであったため、当初は黒人は冷淡で、敵(ニュージーランド)チームが勝てばいいという態度だった。が、マンデラさんは、〝一つのチーム、一つの国〟というスローガンをつくり、南アのスプリングボクスが白黒を問わず、全体の代表チームであることをアピールした。ワールドカップ本番では、彼はスプリングボクスのユニホーム姿でグランドに立ち、選手たちと握手した。〝許そう、何もかも許そう!〟とその姿で、彼は示した。これを見て、白人も黒人もともに熱狂的にスプリングボクスを応援。スプリングボクスは初めて世界チャンピオンに輝いた。マンデラさんも感動して「スポーツには世界を変える力があります。人種の壁を取り除くことにかけては、政府もかないません。」と述べた。


 南アではマンデラさんのことを〝タタ〟と呼ぶ。国民の父、という意味だ。この偉大な〝タタ〟の心意気を深く感じて、黒人はさしもの怒りを鎮め、白人は黒人に対する大きな恐怖を克服することができたようだ。



ケープタウンで虹を見た!

 ケープタウン。南アで一番美しい街。もしかしたら、世界で一番美しい街。ここでは山と海と街が渾然一体となって、不思議な景観を醸し出している。振り向けば高さ1000メートルを超すテーブルマウンテンあり。目の前はキャンプスベイの白砂のビーチと果てしない大西洋の荒波。街を歩けば、色とりどりの家が並ぶマレークォーターあり、独特のアフリカン・アートの小物が並ぶいかした店々あり。寿司屋はもちろん世界中のグルメレストランもあり。


 2011年には、トリップアドバイザーで、世界で一番行きたい街、第一位にもなった。

 ケープタウンで見るアフリカンアートは、音楽もファッションも家具も小物も、実に新鮮で魅力的である。目の前に並ぶ、アクセサリーや食器、ランプなどを見ていると、本当にワクワク、ドキドキしてしまう。この感覚は、パリでもフィレンツェでもニューヨークでも、味わったことがないほどだ。


 黒人の色彩感覚や自由自在の創作アイデアは、今までどこでも見たことのない美を現している。ダチョウの卵の殻を彫刻して、一つ一つにあかりを灯すシャンデリア。ハリネズミのハリをすだれのように並べたランプシェード。レースのように牛革を切り抜いてつくったジャケット。書き出せばもう無限で、果てしがない。

 私たちは7回も南アを訪れた結果、これまでフランスやイタリアの布や小物で飾られていたリビングルームを、すっかりアフリカナイズしてしまった。壁の絵も置物もフロアスタンドも全部アフリカみやげ。アクセサリーもハンドバッグももちろんアフリカ製。


 こうなった大きな原因は、マンデラさんが黒人と白人の融和をはかり、ルーツの違う二つの文化のいいとこどりができたからだ。他のアフリカ諸国の製品が、質的に未熟なのに比べ、南ア製品は日本に持ち帰っても十分使えるし、デザインの良さは抜群だと私は思う。


 というわけで、いつの日かケープタウンが、パリやニューヨークを超えて、時代の最先端の街になるのかも、と私は一人夢見ている。

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