#1 1980年5月1日

 ニューヨーク禅堂正法寺(しょうぼうじ)の重い扉を聞けると、中は薄暗く、静まりかえっている。

 玄関に僧衣を着た小柄なアメリカ女性が立っていて、ささやくような声で、初めての人、2度目の人は2階へ、3度目以上の人は1階の禅堂へと指示している。もちろん英語である。

 ここはアメリカなのだから、当然といえば当然なのだが、禅寺の内にいるのはみなアメリカ人で、使われている言葉は英語だけというのが、奇異な感じがする。

 2階の和室に集った、今宵の初心者は20人ほど。黒人は1人、あとは白人ばかりで、黄色はわたしたち3人。

 こげ茶の僧衣をまとった若いアメリカ男が、足の曲げ方から話はじめる。

 見れば、坐蒲(ざふ)といわれる丸いクッションを3つも重ねて、まるで椅子に坐るように坐っている人もいる。かと思えば、長い足を折り曲げて、ハーフ・ロータス、半跏(はんか)という坐禅の足を組んで、神妙に壁を見つめている男もいる。

 いわれるままに、半跏というのをやってみる。足が思うように曲らず、左足がやっとこさ、右の太腿の上にひっかかる。

 「さあ、坐ったら、動かないで。日は閉じないで、視線は斜め下。何も考えないようにしましょう。といわれると、いろんなことが頭に浮んでくるでしょう。はじめは誰でも、そうなんですよ。考えを追わないで、ただ、息に集中してみてください。声にださずに、息を数えてみましょう。吸って、はいてで、ワーン。吸って、はいてでツー。スリー 。フォー 。ファイブ。テンまでいったら、またワンにもどって。うまくできなくても、何回でもワーン、ツーとやってみてください」

 坐っていると、仰せの通り、あらゆることが目まぐるしく頭に浮んでくる。

 ご近所にあずけてきた祐助は、もう食事をすませたかしら。ああ、あの人に電話するのを忘れていた。帰ったら、かけなきゃ。彼女、怒ってるだろうな。すぐ怒るんだから。向うだって、けっこういい加減なくせに‥‥。

 とてもとても、落着いて、息なんか数えていられない。

 ワーン、ツー、スリー、フォー、足が痛くなってきたなあ。いったい何分たったんだろう‥‥。

 リン、と鐘が鳴る。みな立ち上がり、ぞろぞろと階段を降りだした。経行(きんひん)といって、一列に静かに堂内を歩くのだそうである。歩くほどに、しびれた足に血が通う。

 列は、はじめて、正法寺の禅堂と本堂に入った。お堂の内は、ピンと張りつめた厳しい雰囲気である。乱れのない厳しさが、なんともいえず、すがすがしい。

 本堂の前に、小さな石庭がある。石庭は、マンハッタンのビルの谷聞に沈んで、無言で何かを語りかけてくる。薄闇に、白い石が浮んでいる。

 常連と合流したので、経行の列は6、70名。

 ふと気がつくと、肩をいからせ、足を突っ張り、ぎこちなく歩いている人もいるし、音もなく、静かに歩いていく人もいる。

 今度は、禅堂で坐禅がはじまる。 

 少し心が落着いて、1、2、3と息を数えて、まあまあ澱みなく時が流れる。半跏に坐っていると、体がぴったりと座蒲団に政いこまれていくような感じがする。

 ああ、わたしは今、アメリカの大地の上に坐っているんだなあ、と思う。なぜか、畳も床も消えてしまって、わたしはアメリカの大地に坐っているんだと思いつづける。

 ご住職の嶋野栄道老師の法話があった。これも英語で、キャベツの話であった。自然界の中での人間の思い上りをたしなめられ、青々と熟れて、さあ食べてくださいと、身を投げだしてくれているキャベツへの感謝を説かれた。

 アメリカ人たちは、真剣に聞き入っている。キリスト教文化は、自然界の中で、人間だけを特別な存在としているから、キャベツと人聞を、いわば同列に置くような話は、彼らにとって新鮮なのだろう。

 話の後は、また坐禅。みんなぎこちないながらも、懸命に坐る。なぜだか知らないけれども、前後左右にいるアメリカのお嬢さん、お兄さん、おばあさん、おじさんたちが、あんまり熱を入れて坐るもんだから、イヤイヤ坐禅にきたわたしまで、ついつい熱がこもってきた。

 日本とはだいぶ違うようだな。わたしは、お葬式や法事の時しかお寺にいかない、日本の暮しを思った。アメリカ人は、大真面目に、仏教を学んでいるらしい。わたしは、仏像を拝んだりするのはいやだけど、坐禅は大地の上に坐るようで、ちょっといい感じだと思った。

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