#2 1980年5月22日

 ああ、ここは恐いところだな。深い淵の際に立っているみたい。この淵に、のめりこんでしまいたいような気がする。でも、この淵にのめりこむと、なにもかも変ってしまいそうで、恐い。恐いところだなあ‥‥。

 リンと鐘が鳴って、坐禅は終った。みんな立ち上がって、経行をはじめた。

 わたしも、ハッとわれに帰って、立とうとした。が、腰を上げようとしたら、信じられないことに、ひっくり返ってしまった。足がしびれて、足萎えになっていた。

 僧衣を着たアメリカ人のおじいさんが、すっとやってきて、「わたしがいっしょにいてあげるから、心配しないで、あなたは足が直るまでここにいなさい」と、耳元でいってくれた。気がつくと、十数人いた人々は、下の禅堂に降りてしまっていた。

 いったいどうしてこんなことに? 2度目の坐禅会にきて、例の半蜘に坐って、壁を向いて、イーチ、ニーイ、サーン、と息を数えていたら、今日は、わりにすぐに閑(しず)かな気持になって、息ばかり数えていられた。途中で、足が痛いなあと思ったけど、いつのまにか、それも気にならなくなった。

 坐禅中、わたしは、閑かな、不思議な精神世界にいた。時間がどのくらいたったのか、それにも気づかなかった。深い淵の際に立っていた。あの、のめりこみそうな、恐いような感じは、なんなのだろう。

 もちろん、体が崖っ淵にいる感じではなくて、精神の世界のなかで、ふといだいた感じだった。わたしはずっと畳の上に坐っていたのだし、そのことはよくわかっていたのだから。それにしても、どうして、恐い、と思ったのかしら。

 腿と足をもみほぐしながら、いまだ夢から覚めやらぬ心地で.こんなことを思っていた。

 「もう、歩けます」

 階下の禅堂で、みんなと合流し、また坐禅。今日は、アメリカの女の方が、接心(せっしん)といって1週間お寺に泊りこんで坐禅する会の体験談を話された。

 禅堂を去る時、なぜか、すごく気分がよくて、ひとりでに身心に力が湧いてくるのを感じた。こんなに体の内側から力が湧いてくるのは久しぶりだった。

 マンハッタンの夜道を歩きながら、考える。わたしは、正直いって、坐禅なんて、じっと坐って息を数えているだけで、時間の無駄じゃないか、考えないで坐っているよりは、その時間で何かを考えた方がましじゃないか、と思っていた。よっぽど気持の落着かない人が、気を静めるにはいいだろうけど、と。

 ところが、今日の坐禅は、そんなもんじゃない「何か」に思える。いったい何なんだろう?

 ニューヨークに来てすぐ、わたしは病気になり、生命にさえかかわるような病名を宣告されたり、2年間もの投薬のあげく、病気が進行しないようだから、あなたの病名は間違っていたかもしれない、といわれたり。

 めったにない皮膚の病気らしいから、仕方なかったのかもしれないが、わたしにすれば、重い苦しい日々であった。

 その病気が治って、体から薬っ気がとれてきたのがこの春。人生のなかばで、あらゆることが中断されてしまった2年間を通り過ぎて、やっと、元の元気な自分に戻れた。幸せな、呆けたような春の日々を楽しんでいた矢先、坐禅に誘われたのだった。

 病気や死という事柄との対面は、いつのまにやら、わたしを変えていた。やっと元気になったのだから、もう時聞を無駄にしたくない。いつ死ぬかわからない人生なのだから、一番大事だと思うことだけをやろう、と思うようになっていた。

 以前やっていた仕事に戻る前に、自分がほんとに何をやりたいのか、トコトン考えてみたいとも思っていた。

 もう少し、坐禅をしてみるのも、案外いいかもしれないな。何が何だかわからぬままに、わたしは坐禅に惹かれはじめていた。

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