#6 1980年6月19日
いつのまにやら、わたしはマンハッタンの喧噪を忘れていた。閑かな、山の寺の暮しに身も心も慣れてきた。昨夜はぐっすり眠れたし.朝は朝で、ゴォォン、ゴォォン、という鐘が鳴る頃、ふっと目が覚めた。
いい朝だった。木立ち越しに、朝の草色に輝く水面を眺めながら、こげ茶の僧衣の裾を露に濡らして、禅堂への道を登っていった。
あの感動的な読経があり、坐禅があった。この朝、坐禅中に、わたしは自分でもびっくりすることを思った。
坐禅をして、閑かな気持でありながら、なぜ自分はここに坐っているんだ、と考えつづけた。なぜ、ここに。素直な気持になりきりたいという衝動と、栄道老師はどんな人なんだろう、なぜ、お坊さんなんだろう、なぜ、禅を人に伝えようとするのか、なぜ、なぜ、と思いつづけていた。
そのうちに、ふっと、わたしは、栄道老師に関する一切の判断を停止する気になった。いい人だとか、悪い人だとか、わたしを理解してくれそうな人だとか、そうじゃないとか、そういう一切の判断を、捨ててしまった。
そして、導かれる、という言葉を思った。
この時、わたしは彼を選んだのではない。彼のことをわたしはたいして知らなかったし、とくに親しみを感じていたわけでもなく、坐禅中に、まったく判断を停止したある飛躍の中で、突然、導かれるということを強く感じたのである。
意外な、思いであった。わたしは、宗教にはコリゴリだったので、そんなふうにならぬよう、気をつけていたつもりだった。
が、坐禅には、抗い難い力があり、わたしがわたし自身を縛っておこうとしても、その綱を、なに者かが切って、わたしをさらに自由にしてしまうようであった。
坐禅は、人が自分で自分を縛っている、無数の綱を、1本1本切り落していく作業のようだ。
それにしても、この朝坐禅中にふっと栄道老師に導かれたいと感じたことはわたしとしてはこの上ない驚きであった。
いったい、どうしたというんだろう。
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