#9 1980年6月24日
昨日まで、考えてもみなかったことを、自分が感じ、考える、というのは、なんという鷲きだろう。
わたしの日に映る世界は一変してしまった。いや、世界は何一つ変らないのだけど、それを見るわたしの目が、突然、変ってしまったのだ。
気が狂ったのかしらと、何度も何度も思った。気が狂うとは、こういうことではないと知っていたけれど、それでも、こんな激しい精神の変化がある夜突然、誰かに起きうるとは想像したこともなかったし、これが何なのか、皆目見当がつかなかった。
が、老師への手紙は、投函しなかった。手紙を書いたときまでの、一刻も早く禅堂に戻りたいという気持はなくなっていたからだ。あの夜、光がきらめくように、わたしの中に、あの「思想一式」が飛びこんできたので、激しい驚きは残っていたが、それなりに気持は落着いた。
それまでは、出かかったものを、途中でとめられたような、生理的に不安な感じで、オチオチ暮せなかったけど、ああ、出るものは出た、という壮快感があった。
こうして1日たち、2日目の朝。やっぱり、これはなんとしても老師にお目にかからなくては、と思えてきた。まるで雷に撃たれたように、一瞬にして世界観が変るなんて、どうにも不思議でたまらなかった。で、老師にお電話をして、
「わたし、ショックなことがあって。今日お目にかかれますでしょうか」といった。ちょうど、午後の坐禅会のある日で、「坐禅の後で、お話ししましょう」といってくださった。
暑い夏の午後のこと。坐禅をしていると、汗がタラタラと流れる。
「どうなさいました」坐禅の後、おいしいお茶を飲みながら、老師はいわれる。わたしは、ともかく前に書いた手紙をお渡しし、「この続きがあるんです」といった。
読み終えて、老師は「いいお手紙ですね。で、続きは」といわれた。
「まだ、ちゃんと書いてないんです。慌てて思いたメそのままですけど」といって、わたしは、その一部をお見せする。
「坐禅をしていると、ふっと肉体を忘れる感じがする。あの、肉体を離れた意識としての自分は、自然そのものの意識なのではないか。それなら、わたしという肉体は、宇宙のどこをウロウロしていても、けっきょく同じなのかも。インドのハリーナや、いろんな人々とわたしは、けっきょく同じ(同一の)人間? なにもかも一つなんだな。耕心さんは、わたしでもある。同じ、同じ、老師とわたしも同じ。一」
これだけのメモを見られて、老師は、
「ワンダフル! これは見性(けんしょう)だ。ウソならわかりますよ」といわれた。わたしはただ、呆然としていた。
「わたしはうれしいですよ。坊さん冥利に尽きます。みんながこうなってくれるために、わたしはお坊さんになったんです。
おめでとう!
わたしを含めて、多くの人たちが体験してきたことです。まだ、余震みたいなものが続くかもしれません」
老師は、このとき、ふだんと違う顔をしておられた。いつものまるみのある笑顔ではなくて、真剣な、緊張と驚きのまじった表情だった。ああ、いま、老師は素顔なのかなあ、などと思いながら、わたしはボンヤリと、老師を見つめていた。老師のいっておられる言葉の意味がわからないわけではなかった。でも、わたしには、何1つピンとこない、別世界のことのようであった。
見性って、悟りのことでしょ。わたしが?とても信じられない‥‥‥
「禅も仏教もなんにも知らないわたしが、こんなことになったりするんですか」
「それがかえってよかったんだ」老師はかんたんにいわれる。
「また気が変ったりすることは、ないんですか」わたしは、あきっぽい自分を思い、ポツリといった。
「あなたは、ほんとうの自分を見つけたのです。これは変りませんよ。たしかな体験なのですから。なるべくして、こうなられたんでしょう」
老師は熱心にいわれるが、わたしはボーとしつづけている。ふと、一字の書が掛っているのを見つけて、「あれは何という字ですか」ときく。
「関という字です。あなたは、関を突破されたんだ」
わたしは思わず、
「そんなはずありません!」と、叫んでしまった。老師は、ショック状態のわたしにかまわず、
「わたしはうれしいですよ。おめでたいことです」とまたお祝いの言葉をいわれた。
夕暮れのマンハッタンを、呆然としたまま歩く。老師に、気が狂ったんじゃない、これでいいのだ、といわれて、少しホッとしたようにも思う。でも、「悟り」とは、あんまりではないか。わたしは、まるでへンなことになってしまったような気がして、誰にも知られたくない、と思った。夫にも友だちにも、誰にも、一生いわないでおこう、と思っていた。そんなことを知られたら.もう、ふつうの人間扱いしてもらえないんじゃないか、と心配だったのである。
夜中に、例の、光のきらめいた夜のメモを長々と写して、老師への2度目の手紙を書いた。
「栄道老師、
日曜の夜のメモをご覧になりたいとおっしゃったので、そのまま写します。
『これが最後とか、最初とか、そんなものはないんじゃないか。時というものは、けっきょくないんじゃないか。今、わたしがしていることは、ずっとこうしてきたことのようでもあり、始めでもあり、今でもある。それは同じことなんだな。
坐禅をしていると、ふっと肉体を忘れる感じがする。あの、肉体を離れた意識としての自分は、字宙そのものの意識なのではないか。それなら、わたしという肉体は、宇宙のどこをウロウロしていても、けっきょく同じなのかも。
インドのハリーナ(人力車のおじさん)や、いろんな人々とわたしは、けっきょく同じ(同一の)人間? 何もかも一つなんだな。耕心さんは、わたしでもある。同じ、同じ。老師とわたしも同じ。一。
ああ、どうしてこんなに見えてしまったのだろう。どうして? わかりすぎて、見えすぎて、恐いよう。
宇宙全体の意識が形をとっている時、苦もあり、楽もあり。形がなくなれば、たった一つの意識。
現世(うつしよ)。形がある時、地獄があり、極楽がある。形がなければ、地獄も極楽もない。
肉体なんでいらない。自分というものは、けっきょくないのだ。
バタバタやっているのが、現世。夢みたいなわけだ。あると思えば、あるし、無ともいえる。宇宙全体の意識の戯れ?
けっきょく、あなたもわたしも、まったく同じ、同一の意識をもった人間なのですね。
生きとし生けるもの、みな一つ。草も木も、一つのいのち。
いとおしみ、いつくしみ。これは深い愛の思想だなあ。好悪の情は、宇宙全体の意識に反する。
なぜなら、物はみな同じに生かされている。松村さんは、わたしでもあるのだから。相手は自分なのだから。すべての相手をいとおしむより、しょうがなくなる。
人のために生きることができる。般若を伝える風鈴になる。とくにそう意識しなくても。
何をしてもいい。しなくてもいい。
もう辛いことは、何もないはず。自分らしく生きていけばいい。
ああ、どうしてこんなところまで、来てしまったのだろう。あっというまに。信じられないことだが、気が狂っているみたいだけど、もう、わかってしまったとさえ思える。
どうなっているんだろう、いったい。
どうしてこれしきのこと、みんなにわからないのか。学校で教えないのか。坐禅をすると、どうしてわかるのか。しないと忘れるのか。しかし、本で読んでわかるのと、まるでわかり方が違う。しんそこ、わかる。
集中。猛然たる意識の集中が行われたみたい。解き放つのに、すごく時聞がかかる感じ。いまでも、まだ集中が続いている』
さて、メモはこのへんで終りです。
今日、老師にお目にかかれて、ほんとうによかったと思います。いまこうして、メモを読んでみますと、案外、落着いているようですけど.当人”気が狂ったか”というふうな、戸惑いと緊張感に、疲れ果てておりました。
気が狂ったのではない、それでいいのだ、といっていただいて、安心しました。安心したら、また、霧が晴れていくように、いままでのわたしの驚き、恐れが消えていきました。
今、夜半の1時半。ふっと驚きが消えたので、寝床から起きだし、お便りを書いてしまうことにしたのです。
よりによって、なんでまたわたしのところに、こんなものが転がり込んできたんだろう、とは、つくづく思います。
“悟り”なんて、言葉をロにすることさえ、恐ろしいような、別の別の世界。わが身に近づけて想像してみたこともないし、それを望んでさえいなかったように思います。
ごくふつうに、幸せに生きていきたいとだけ、わたしは願っていたのです。そして、この1、2カ月、なぜか心が空になれて、引に幸せでした。だから、なに一つ、それ以上のものを望んではいなかったのです。
驚きが消え、霧が晴れて。わたしの物の見え方が変っただけで、他になにも変ったわけじゃなし。気負ってみてもしょうがないし、いつもと同じに生きていけばいいのだということに気づきました。
特別いい人になろうと思わず、悪い人にはなろうとも思わず、ありのままに生きていきたい。
気負いすぎて、無理をすると、ロクなことにならないのです。こんどのことだって、山から帰る前の日の夕方、坐禅に行くつもりだったのに、祐助に「マミー、きょうはいかないでよ」といわれ、ふと、わたしも緊張しすぎているし、このへんでのんびりしてみるかなと思い、坐禅にいかず、髭のチャーリーさんやら耕心さんやらと、賑やかなタベを過したのが、案外よかったのだと思います。おかげで気持がゆったりとし、ぐっすり眠って、翌朝、すがすがしい気分で、あの雨の中を禅堂にでかけることができました。
がんばらないのもいけないし、がんばりすぎるのもいけないし。
わたしの好きな南の海の水に体を浮べて、まるで水を体に着ているような感じで、水と戯れて、さんさんとふりそそぐ陽を浴びて、波をかぶり、また波間に浮ぶように、ゆったりと閑かに、生きていけたらと思います。
水や陽に、身も心もまかせきって、生きていけたらと思います。おかしなことをいいますけど、わたしは大地を抱きしめたいと思うほど、自然が好きです。抱きしめて、抱きしめられて、そのふところで、のんびりと生きたい。
今度、大菩薩禅堂に伺うときは、それこそ祐助を連れて、思いきり遊ばせていただきたいと思います。朝とタは坐禅して、昼は遊び放題。
そしてまた、お時聞がありましたら、いろいろと教えていただけたらと思います。なぜ、誰に向ってお経を読むのかとか、阿弥陀さまやら菩薩やら、その区別もつかないし。あれはいったい、なんなのですか?なぜ、拝むのですか?
この先、わたしがどう生きていくにせよ、一つわかっていることは、わたしがかなりの怠け者で、いい加減な人間だということです。だから、あまりそうならないように、どうか見張っていてください。
そうしたら、少しだけ坐禅をして、(How many times a month?!)あとは、わたしが望んでいたように、せいぜい楽しく生きていきたいと思います。楽しむことなら、まかせといて、です。
もう一度、心からありがとうございましたと申し上げたい。そして、どうかこれからも、くれぐれもよろしくお導きくださいますように。どうか、わたしを励ましてください」
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