#24 1983年1月9日

不思議な日だった。

去年の暮れから、だいぶ坐禅しているせいだろう、だんだんに、自分という意識の流れがなくなっていく感じなのである。

この感じは、ほんとに生れてはじめての体験で、坐禅のせいだとわかっていてさえ、いいようもなく不安な、恐ろしい感じだ。

生れてこの方、確かな「現実」だと思ってきたものが、次々とあやふやになり、幻になってしまう。目の前の、この「現実」が、過去や、本の中の世界、テレビの映像と同じようなものにしか、感じられないのである。

すべてが、虚空になっていく。何かにひっかかっていたいと思っても、ひっかかるものが、もう何もないのである。わたしが立っているつもりなのに、足元から地球が消え失せ、いつか、わたしも消え失せている。

自分という意識の流れを、あると信じているところに、「現実」の暮しは成立している。ふつう、人間が生きているということは、自分という意識の流れによって、すべての「現実」を受けとめ、処理しているという実感である。

けれど、自分という意識の流れが消えてしまったら‥‥‥。ただ虚空。「現実」と思ってきたものは、夢なのだ。

わたしは、不思議なことを思った。

ああ、人間は人間を食べてもいいな。ソーセージにしてでも、カマボコにしてでも。核爆弾で人間が燃えても、太陽熱で焦がされても、別にアジの干物と同じことだな。

人間なんて、もともと生きてもいない!生と死は同じことだ。(人間や宇宙を、有と感じる時、おだやかに息づく生命があり、人情がある。無と感じる時、ただ虚空!)

晴れた冬の日曜日。

虚空になってしまったわたしは、家族について、和泉多摩川の川原に来ていた。

何の思いもない。いろんな人から年賀状がきて、みんないろんなことが書いてあるけれど、わたしにはこの人生への思いというものがない。ああ、体は元のままだけど、死線を越えてしまったな。

ここは、あの世といってもいい‥‥‥。

わたしは、茫然として、川原を歩いていたようだ。

ふっと頭を上げた。虎の顔をした凧が見える。ああ、あの凧。何かが反応した。まるで計量器の針がプルッとふるえるように、かすかに。

あの凧がわたしだ!

多摩川の土手で、夫と祐助が、大きな黄の地に黒い虎がにらんでいる凧を上げていた。凧は、冬空に、長い尾をはためかせている。

ああ、すべて夢。「現実」と思ってきたことも、夢のまた夢。

合掌!!!

ああ、ついに、わたしはいない。わたしという、心と体のにごりの感じがまったくなくて、羽よりも軽い。飛ぼうと思えば、今、飛べる‥‥‥。

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