#4 1980年6月17日

 眠れない夜であった。ふとんに入れば、ストンと寝てしまうわたしにしては、珍しいことだった

 ふと気づくと、梢がもう起きている。

 「何時」

 「4時過ぎ。まだ寝てて大丈夫よ。鐘が鳴ったら、お寺へいけばいいらしいから」

 「ふーん。わたし今朝は眠いからやめとく。あなたいってらっしゃい」

 うとうと、心地よくまどろんでいると、昔なつかしいような、お寺の鐘が鳴りだした。

 ゴォォーン、ゴォォーン。腹の底まで、滲みわたる、深い、すごみのある響きである。

 「マミー 、梢さんは」思いもかけぬ、祐助の声である。

 「あら、あなた、まだ起きる時間じゃないわよ。さあ、寝なさい」と、声をかけると、

 「梢さんは、どこへいったの」と、しつこくきく。

 「お寺よ。坐禅をしに」

 「マミーは、どうしていかないの。いけばいいのに」祐助は、どうしたわけか、がんばる。

 「そう、じゃ、マミーもいくか」

 祐助に起こされて、ついに、わたしもいく気になった。わたしが身仕たくしている間に、祐助はまた、すやすやと寝てしまった。

 6月とはいえ、朝は寒い。セーターとスラックスを着て、その上に、こげ茶の僧衣をつける。

 寺までの道は、この世のものとも思えぬほど美しい。朝もやが、ビーチャー湖を包み、樹々は、逆光の中に、黒々とした幹をさらしている。

 大菩薩禅堂での朝の坐禅は、魅力的なものであった。30人ほどの修行者がいたであろうか。

 栄道老師が朗々と読経される。アメリカの修行者たちも、梵語で日本で英語で、音楽のように美しく、経を読みすすむ。

 梢とわたしは、一番末席で、正坐して、英語の経本を見ては、少しだけ声を合わせていた。

 と、突然のように、経文を称える声が、早く、高く、大きくなりだした。見れば、「Enmei Jukku Kannongyo」とある。後々、知ってみれば、これは『延命十句観音経』である。

 「観世音 南無仏与仏有因‥‥‥」

 彼らは、声を限りに、叫びつづける。何十回となく、十句の短い経文が繰り返され、数十人しかいないのに、読経の声は、堂を振わせ、山にこだまし、湖をさえ波立たせるかのようである。

 「すごいもんだなあ」と、わたしは息をのむ。「これはいったい、何だろう。宗教的情熱なのかな。それとも、静かな暮しで若者たちが欲求不満にならないように、1日1回声を限りに叫ばせるのかな」

 向い側に坐っている耕心さんをはじめ、いずれ出家して僧になるという男たちも、隣り近所に坐っている「なんとなく禅が気に入って、百日もここに居ついてしまった」という若い女の編集者も、まるで狂ったように、呑まれたように、渾身のカをこめて「カンゼオン‥‥‥ カンゼオン‥‥‥カンゼオン‥‥‥」と叫んでいる。

 ふっと、老師を見る。さっきまで、あれほどもの静かに経を読まれていたのに、いまは、老師も熱っぽく「観世音‥‥‥」と叫んでおられる。

 後で、梢がポツリといっていた。

 「あのとき、さめていたのは、わたしたち2人だけね」

 この読経は、心に残るものだった。「あれはいったい何なのだろう」また1つ、わからないことが増えた。

 坐禅は、時が長く感じられ、足が痛いもんだなあ、と辛かった。で、腿の上にのせていたた左足をサッとすべらせて、ふくらはぎの方へもっていった。

 その瞬間、老師が音もなく現われ、後ろに立っておられた。「ああ、わかっちゃうんだなあ」と、一種の恐さを感じた。でも、わたしはもともと超楽観的人間だから、禅の恐さみたいなものを、あんまり気にもせず、考えもせず、心のどこかで「一生懸命なら、それでいいんでしょう」と思っていた。

 昼食後、わたしたちは、栄道老師に、日本語でお話を伺いたいとお願いしたところ、ゲスト・ハウスまでいらしてくださった。

 ちょうど春の百日の結制(けっせい)が終ったばかりで、この数日は、珍しく時間があるんですよ」と、老師はなかなかのご機嫌である

 梢は、ここぞとばかり、質問をはじめる。いつも彼女がいっている、宇宙全体が1つの意識であるという件である。わたしには、皆目わからない話がつづいた。

 話はやがて死というテーマに至る。

 わたしは「死んだら、土に還るのだと思う。死とは、ただそれだけのことだと思っている」といった。

 老師はまあるい笑顔でいたずらっぽく目を光らせて、「そう、体はね」といわれた。

 「体以外のものなんて、なんかあるんですか。わたしは宇宙全体の意識なんて、信じない」と、いった。

 「わたしは、死ぬのがこわいとは思わない。病気で苦しむことはいやだけど。死んだら、土に還って、その土から草が生えて花が咲くかもしれないし。牛がその花を食べるかもしれないし。わたしは、土に還っていくのが、うれしいと思ったこともあるくらいなんです。それでいいなあ、と。土に還ると思うと、安心なんです。だって、人間も、自然の一物でしょ」

 わたしはここ数年にわたって.常々考えていたことをいってみた。

 老師は、「あなたが安心なら、それでいいんですよ」と、軽くいわれた。

 「でも、わたし、坐禅は好きみたいです。足が痛いのは、困っちゃうけど。仏さまとか、宇宙全体の意識とか、そういうのはぬきにして、ただ坐禅だけしててもいいですか」

 「どうぞ。眠くても、寒くても、痛くても、ね。坐禅をするのはいいことです。これだけは、確かですよ。わたしは、自信をもっていえますよ」

 栄道老師は、どんな愚問にも、心をこめて答えてくださった。老師は、禅堂におられるときと、こうして話しておられるときと、別人のような雰囲気である。禅堂では、まさに音もなく歩かれて、その物腰は実際のお年よりもはるかに老成した感じである。

 が、一歩禅堂を出て、こうしてお話していると、若々しく、親しみやすい。おかしいときは、心底、おかしそうに笑いころげられる。

 アメリカ人の弟子の1人は、栄道老師が好きで、もうすぐこの寺で得度して僧になると語った後で、ニヤッとして、「僕たちは、チャンという日本語を知ってます。実は、僕たち、ときどき老師チャンと呼んでるんですよ」といってウインクした。

 この禅堂に集う、アメリカ人の弟子たちが、どんなに栄道老師を慕っているか、ひょいとやってきたわたしたちにも、よくわかった。老師を中心に、この禅堂には、大勢の熱っぽい人の輪ができていた。

 わたしたち、日本の女たちは、しかし、そうかんたんに、この輪の中に入ることはできない。悲しいかな、わたしたち日本人の体と心の中には、仏教への偏見が深くしみこんでいる。

 この日、老師とお別れした後で、わたしたちは、自分たちの中にある、根強い不信感をもてあまし、悩んだ。

 耕心さん手づくりの夕餉のあと、また禅堂に夜坐にいった。ほの暗い闇の中で、坐禅をしていると、湖の上で感じた幸せ感が甦えり、じわじわと強い力でわたしの体内を充たしていく。

 「幸せだな。今この瞬間が、人生の中で一番幸せだな」と、坐禅中、なんどもなんども思った。坐禅しながら、わたしはいま微笑んでいるんじゃないか、と思っていた。

 この夜、わたしはまたも眠れなかった。2時頃、ついに起きだして、ゲスト・ハウスの禅堂にたたずむ。

 正面の仏像の向うに、小窓があり、暗い湖が見える。この小さな禅堂には、この上なく素朴な味わいがあるので、ここは、わたしの好きな空間だ。

 じっとしている。

 「わたしは、なんでこんなに興奮しているんだろう」

 じっと考える。

 「ついに、禅のお寺にきちゃったから、わたしの中で眠っていたムシが、起きだしちゃったのかなあ。この人生の意味について、人間は考えてもわかりっこないのだから、もう考えるのはやめよう、と長いこと心に決めていたのに」

 すでにわたしは考えだしていた。「やめよう」と思っても、やめることができない、ある真摯な感じが、自分の中にあった。それを、感じて、興奮しているのだ。

 今この瞬間に、老師をたたき起して、人生っていったい何なのですか、あなたはほんとうにわかっているんですか、と問いつめたいような衝動を感じた。

 木造りの小さな禅堂は、しずまりかえって、わたしをやさしく包んでいた。なぜこの山にやってきたのか、自分でもよくわかっていないのだけれど、ここにきたことがなにか意味あるように思えていた。

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