#10 1980年6月28日
夏の土曜日の昼下り。ニューヨーク禅堂の石庭を前にして、老師はお茶を点ててくださった。石のお庭に、まずたっぷりと打ち水し、すがすがしい冷気が感じられる中で、緑の一杯のお茶は、香りよく、この上なくおいしかった。
「お便り、読みました。わたしはほんとうにうれしかったですよ。
誰の場合でも、なにかの瞬間に、忽然と悟るようです。おシャカさまは、暁の明星をご覧になった瞬間に、すべてを悟られた。あなたも、そんなにびっくりしなくても、大丈夫ですよ。
あなたはお母さんだし、ご主人もいらっしゃるし、仕事もあるし。外側は変えないで、これから内側を変えてください」
栄道老師は、実にしみじみと、心にしみわたるように語ってくださる。
「昔、白隠(はくいん)禅師という方がいらしたんですよ。近所の娘さんが不義の子を生んで困ったんでしょうね、白隠さんの子だと親にいったので、親が怒ってその子をお寺に連れてきたというんですよ。そうしたら、白隠禅師は『ああ、そうですか』といって、黙ってその子を育てられた。半年くらいしたら、その娘さんがいたたまれなくなったんでしょうね。すみませんでしたと、お寺にその子を引き取りにきた。白隠さんは、また『ああ、そうですか』と、その子を返されたそうですよ。何があっても、『ああ、そうですか』といえるように」
わたしは黙ってしまった。
「なかなか、そうはいきません」というと、
「そのために、坐禅するんですよ。もっともっと、よくわかるためにね。ちょうどいい機会だから、この庭の前で、坐禅しましょう」といわれ、しばし、坐禅。
「ご質問の阿弥陀仏というのは.ほんとうの自分のことです。別のいい方をすれば、阿弥陀仏は、自然そのもののこと、大宇宙のことといってもいい。南無阿弥陀仏の南無は、帰依するという意味ですから、南無阿弥陀仏は、難しいことじゃない。宇宙に帰依するということです。小さな自分を捨てて、ほんとうの自分である大宇宙に帰依するのが、南無阿弥陀仏、です」
「そうですか。よかった。仏さまというのは、宇宙そのもののことなんですね。これは宗教なんてもんじゃないですね」
「そう」
「字宙に帰依するんだったら、わたしは帰依したい。南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏といえば、親鸞さんって、どういう人ですか」
「あの方は、両白い生き方をされた方ですよ」
「禅は自力、親鸞さんは他力といわれたそうですけど、自力、他力って区別できるのかしら。今度のことなんて、とても自力じゃないし。坐禅したのは自分だけど、後のことは、他力というか、向うからやってきたとしかいいようがないもの」
「そうですね。自力と他力は、けして二つのものじゃないと、わたしも思いますよ。
あなたは、病気がよかったんだ」
「病気が?」
老師はしきりに、「あなたは病気がよかった」を繰り返されたが、この時、その真意はわからなかった。
老師は、夫と梢さんに、このおめでたい話を伝えるように、といわれたが、わたしはとてもそんな気になれなかった。自分でも、受けとめかねていることを、人に伝えることなど、できはしない。
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