#14 1980年7月25日、7月26日

7月25日

午後、栄道老師がゲスト・ハウスの前の湖のほとりに現われ、いきなり白い着物をぬいで、湖で泳がれた。

 わたしは、なんとなくびっくりし、

 「水は冷たくないんですか」などと声をかけた。

 老師はしばらくわたしの顔を見ていらしたが、そのままいってしまわれた。

 わたしは、この山のお寺を立ち去り難く感じ、寂しい思いのままに、時を過した。

 夜、坐禅の後で、燈籠流しが行なわれた。毎年お盆の夜には、100個余りの燈籠が、ビーチャー湖に流されるという。この夜は、斎藤さんのご先祖の霊を供養するためなのか、燈籠は3つ用意されていた。

 昨夜のように、白々と月がのぼり、わたしたちの称える経文が、湖に低く響いた。燈籠は、対岸のブッダのところで水に放たれ、ゆっくりと、風下へ流れていった。

 まるで、時がとまってしまったように、灯はゆっくりと流れた。経文は、低くいつまでも続き、僧衣を着たわたしたちの体は、湖畔の闇にのまれてかき消え、ただ読経の声のみが、水面を流れていくようであった。


7月26日

 「あれは、老師のお餞別だったんだわ」

 朝の坐禅中に、ふと、昨日、老師がなぜ湖で泳がれたか気づき、わたしは感動してしまった。

 急に帰国が決って、心細がっているわたしに、

 「南の海の水に体を浮べて、まるで水を体に着ているような感じで、水と戯れて、さんさんとふりそそぐ陽を浴びて、波をかぶり、また波間に浮ぶように、ゆったりと閑かに、生きていけたらと思います。水や陽に、身も心もまかせきって、生きていけたらと思います」

 と書いたのは、あなたでしょ、と思い出させてくださったのだ。

 わたしは、うれしくなって、坐禅の後で、祐助といっしょに、ビーチャー湖にぽっかりと浮んでみた。

 水は、透明で、さらさらと肌にまとわり、心地よい冷たさだった。ニュ一トという、あめ色のヤモリのようなものが泳いでいる。

 この水に浮んでいると、ほんとうに仏さまの上に寝ているという感じだなあ。わたしは心からほっとし、力が湧いてきた。

 夜坐のとき、ふと気づくと、老師は低く、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と念仏を称えておられる。坐禅していた2、30人の人々も、低くつぶやくような声で、それにならった。とっぷりと日暮れた禅堂に、念仏の声が、しめやかに響く。念仏って、案外いいもんだなあ、とわたしは思う。

 この夜、野辺の送りがあった。人聞は死んで土に還ると、わたしはいつも思っていたけれど、今宵は、この間亡くなった中国系アメリカ人のお骨を土に還す、野辺の送りであった。

 湖のほとりを、1人1人灯のともったローソクをかかげた行列がいく。行列には、この夜、山にいたすべての人が参加したので、4、50人の長い列であった。祐助も、他の2人の女の子とともに、ローソクをもって歩いていく。

 行列は、草むらを分け進み、やがて、草の中に掘られた穴のところにいきつく。読経の声は高くなり、老師と6人のアメリカ人僧侶たちが、『般若心経』や、『懺悔文』を諦える。懺悔文は英語で、「ピューリフィケイション、ピューリフィケイション、ピューリフィケイション‥‥‥」

と、何度も何度も繰り返された。

 お骨は、ここで焼かれ、お父さんを失った中国系の女の人は、低く忍び泣いていた。香がたかれ、やがて、土がかけられた。40数本のローソクの灯が、黒い土の上で、明るくゆらゆらと燃えている。

 行列は、来たときと同じ道を、禅堂に向って、しずしずと歩いていく。満月がのぼっている。月は、しめやかに歩く人々の列を、照らしていた。

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