#18 1981年12月10日
坐禅体験は、すっかりわたしの生き方を変えてしまったけれど、不思議なことに、わたしはまだ、“言葉” で、禅を学んだことがない。ここらで、禅や仏教の本を読みながら、ニューヨーク以来の坐禅体験を、“言葉” としても納得してみたいと思うようになったのである。
坐禅していると、ハッと何かに気づくのだけれど、それはたいてい、とほうもない自分だけの言葉として、わかった!と感じるのである。そんなふうな時、お経では、何といわれているだろう?
『正法眼蔵』『臨済録』では、何といわれているだろう?
本は、すばらしいものである。何千年来の人間の知恵は、みな本の中に収められているのである。その上、昔のいい本はたいてい文庫本になっているから、四、五百円で巨大な知恵を買いとることができて、痛快である。
しばらく、家で坐禅しながら、本を読んで暮そうと思う。晴耕雨読じゃないけれど、そんな暮しに、あこがれていたのだから。
初冬の一日。丹沢に出かける。ついこのあいだまで、暇さえあれば、足は新宿へ向っていったのに、いつのまにか、小田急線を反対向きに乗るようになった。伊勢原から日向(ひなた)薬師へ。
お薬師さまの石段は苔むして、杉木立の中にしずまりかえっている。桜や梅は、冬枯れた黒い肌を、木もれ日に光らせている。あの黒い枝に、花芽が息づいているのだろう。
日向薬師の村は、ちょっとしたタイム・トラベルでもしているように、わらぶき農家が点在するのどかな田舎である。日向川ぞいの道は、大山山頂へと続いている。
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