#19 1982年1月18日

 主婦というのは、何と結構なお役目なのだろう。若い頃は、女だからって差別しないでとばかり、テレビ局で働いたりしていたが、いつの頃からか、そんな外の物事のために、人生の時間を費やすが惜しくなってしまった。

 たった1度の人生ですもの。1番面白そうなことだけをしよう。まあ、わがままな話に聞こえるが、そうとばかりもいえない。

 ハタ迷惑にならない範囲で、どう生きようと、それは本来、自由なのである。

 ただ、多くの人がその自由を謳歌しそこなうのは、自分が周囲の価値観に縛られているからに過ぎない。何は何よりも上、何は何よりも下。他人(ひと)と比べては、あれも欲しい、これも欲しいと白分を縛って、時を無駄にしてしまうのである。

 20代のわたしは、それこそナウイのが好きで、TV ディレクターをし、ミニ・スカートをはき、カリブ海のかなたまで取材に歩いたり、深夜の六本木をウロウロした。けれど、そんなことをやってみても、次から次へと、自分の作り出したイメージに自分が縛られるので、ミニをロングにしたり、恋人をとりかえたり、アメリカをやめてアジアへと旅先をかえてみたりするしかないのだ。結婚したり、いや結婚という形は古い、そんなものにお互い縛られないで暮そうよ、ともいった。

 そんなことをするうちに、30歳近くなって、ようよう気づいた。なあんだ。平凡な人の暮し、古今東西を問わず.一番多くの人々がやってきたように生きるのが、自由への近道なのだ。

 つまり、外側のスタイルに自由を求めることは、影法師を追って走りつづけるような無意味なことで、外側のスタイルにこだわらなくなった時に、ほんとうの自由に行き会えるのだ。

 なあんだ。そうだったのか、と思って、わたしは早速、平凡の極ともいえて、一番やってみたかったことをやった。会社の仕事をやめて、お腹に子を宿したのである。自分の肉体で、人間の子を育むことができるという発見ほど、わたしが人生で感動したことはなかった。人間は生き物だから、肉体はもう一つの肉体を育むことができるのである。

 これが人の営みというものなんだな。妊娠、出産、育児の体験によって、わたしは深く教えられた。

 平凡な主婦という時の過し方は、何と自由で、クリエイティブなのだろう。白い壁に向って、坐蒲を置けば、坐禅ができるし、料理も掃除も、みな作務だし。世間のことにこだわらずに、淡々として暮すなら、主婦は、お寺の暮しに似ていなくもない。

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