#21 1982年7月21日
「ママ。家ではなんでゴキブリホイホイ置いたりして、アブラムシを殺さないの」
祐助がアブラムシをいやがって騒ぐ。わたしだって、なるべくなら、アブラムシさまたちに、庭で暮していただくようお願いしたい。けれど、あえて殺すとなると‥‥‥。
「祐助は、カブトムシとかコオロギなら、あんなにかわいがるでしょ。アブラムシだって同じ昆虫なのよ。それに、そんなに大騒ぎするほど、バイキンを運んだりしてないんですって。見つけたら、庭に出してやってよ」
祐助は、不承不承「ふーん」とかいって、遊びに出ていく。
ある日、それは坐禅をはじめたばかりの頃で、ニューヨークでのことだった。台所でアブラムシを見つけた。いつもなら、スプレーですぐ殺してしまうのに、そのアブラムシには、顔があった。あの茶色い、モゾモゾした顔で、じっとわたしを見ていたのだ‥‥‥。
もちろん、ごく普通のアブラムシだった。ただ、この時はじめて、わたしはアブラムシと目と目が出会ったというか、瞬間、「あっ、殺してはかわいそうだな」と感じた。
殺さなかった。殺せなかった。「同じだ!」と感じてしまったのである。アブラムシも人も、同じなんだな、と。
この時、わたしは殺すことが悪いことだと思ったわけではない。ただ、アブラムシもわたしも、まったく同じ生き物なんだと感じてしまったのである。
ニューヨークで坐禅をはじめる前から、わたしは何かにこだわるのがきらいな性(たち)であった。女にこだわりそうになると、女も男も同じ人間でしょ、と思い、日本人にこだわりそうになると、黒人も白人もみんなただの人間と思い、仕事や夫や妻や母という役割もみな、仮装行列の衣裳みたいなものと思ってきた。おかしないい方だけど、わたしは「ただの人」なんだと思って生きてきた。
ところが、坐禅をして、台所でアブラムシに出会ったりするにつけ、「人」と思っていることさえ、こだわりなんだと気づきはじめた。
何というのか、何に出会っても、対等に感じてしまうのである。
蚊が飛んでくる。血を吸っているなと気づくと、ああ、今夜、わたしもトンカツを食べたなあ、と思ってしまう。
樹を見ていても、日当りが悪くてかなわん、とか、風にふかれて梢をゆらすのにあきあきしたなどといわずに、落着いて、五百年も千年も立ってるもんだなあ、と感心してしまう。
それどころか。経堂の街を歩いている時、デーンと壁が突っ立っているのに、出くわした。その時、
「ああ、この壁に比べたら、わたしが2本足で歩けるってことは大神通力だわ」と思ってしまった。いつのまにか、壁と自分を対等に比べているのである。
おかしな人!になってしまった。
坐禅をしていると、別に、生物だ、無生物だと思うのさえ、いらぬこだわりに思えてしまう。壁だって、樹だって、蚊だって、アブラムシだって、わたしだって、みな仮りそめの姿。けっきょく、一つなのである_
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