#22 1982年9月19日
ニューヨークやクシナガラで、前世の一コマを垣間見たと感じて、わたしはたまげたものだったが、あれはいったい何なのだろう。その後も、実は、何度か似たような体験をしている。
魔境という人もいる。もちろん、魔境である。この現実と感じられているものさえ、夢、幻なのだから、ましてや過去など、テレビ映画の一コマと同じように、夢幻であろう。だから、そんなものに、とりあわなくても、もちろんいい。
ただ、わたしは、前世体験から、何と多くのことを教えられたことだろう。わたしは、仏教を知らず、前世など考えたこともなかったから.あの体験には驚き、戸惑った。こんなことってあるのかしら?
人生は、生まれて死ぬ一度っきりのものと、かたく信じていたから、生まれるという始め、死という終りを強く意識していた。一度っきりの生と思ってきたから、この人生でのわたしの生の置かれた場所を強く意識してきた。出会った人々との関係も、一度っきりの絶対のものとして愛したり、憎んだりしてきた。そして、死んだら灰になって終りよ、と思ってきた。
ところが、生死が繰り返されるものなら、話はまったく違う。生と死は、不連続の連続であり、まさに、無始無終の営みなのである。しかも、人間の生死だけでなく、虎や犬、アブラムシや蚊、桜や梅に至るまで、同じ生命のつらなりのうちに、生死の営みを繰り返しているのである。
庭の柏の木であれ、庭の梅の木であれ、木々の1本1本さえ、無縁にそこに生えているのではないのだ。宇宙全体が一つの営みとなりきっているなかで.梅の木は生を受け、人間のわたしも生を受けている。
わたしのこの生は、偶然、今の父母のもとに生れたと思ってきたが、そうではなくて、それこそ繰り返される生死のうちに、この人生で父子、母子になる縁を得ているのだ。
なあんだ。海の波みたいなもんだな。どんぶりこ、どんぶりこと、生れ、死に、生れ、死に。
だから、生も仮りそめのものであるように、死も仮りそめの姿だ。境界を異にするとはいえ、自分と感じている意識の流れが、たゆとうように、境界を越え、生と死では、まわりの景色、自分の外見は変っても、他になにも変るわけじゃない。本質的に、一つの流れを流れ続けていくわけである。どんぶりこ、どんぶりこである。
しかも、ほんとうは、時さえ流れゆかないのだから、あらゆる生死は、あるといえば、今のうちにあるのである。何千年前も、今。何億年先も、今。昨日も、今。明日も、今。時の流れと感じているものは、生死を繰り返し、六道輪廻の空間を巡っていると感じていることと、けっきょくは同じことなのである。
流れ流れる現世(うつしよ)の海の波に、翻弄されるのがいやになったら、死んでみても同じ流れのうちにいるわけだから、坐禅して、自分と感じている意識の流れを捨ててしまうほかはない。
坐禅すると、なぜだか知らないけれど、自分、自分と思ってきた意識の流れがわずらわしいものだと気づくようになり、自分、自分へのこだわりがぬけていく。
なぜだろう。坐禅によって、移ろいゆく波でない何か、ほんとにそよとも波立たない、閑(しず)かな閑かな調和の世界に触れることができるからだろう。
坐禅して、この閑けさにたどりつくとき、わたしは、ほっと安心する。わたしの姿形は、生きていても死んでいても、ネズミになっても蝶になっても、この閑けさ、完全な調和は変るということはないのだから。
0コメント