#25 1984年2月24日

 また1年経った。

 はじめて坐禅した日から4年近くなる。坐禅してみて、あ、これはすごいことだな、と感じて以来、わたしはひたすら、「禅」を求めて生きてきたように思う。

 「禅」を求めて、ニューヨークの大菩薩禅堂で坐禅したり、インドへ巡礼したり、中国へ巡礼したり、わが家の六畳間で坐禅したり、本を読みふけったり、歩いていても、お茶碗を洗っていても、寝ても覚めても、「禅」を追ってきた。

 そして、あの日、凧を見た後で、また、ハッとして気づくことになる。「禅」を求めて心の旅をし、ものすごくいろいろなことがわかったような気がした。人間のことも、全宇宙のことも、わかった、わかった、という気がした。それは、たしかにものすごい体験だった。

 けれど、ある日、ふっと気づいてみると、あれほど、天地のすべてがひっくりかえったはずなのに、わたしは、もとのまんまのわたしなのである。眼が2つ。耳も2つ。まん丸い顔して、この大地の上に立っているだけである。

 ああ、そうか。もとのまんまなのだな。寸分違わぬ、もとのまんまなのだな。

 わたしも、地球も、草も木も、何一つ変ったものはない。もとのまんまの姿で、草は生え、木は芽吹き、地球は回り、わたしは歩いている。

 じゃ、「禅」を求めての心の旅は、無駄なことだったのかといえば、そうじゃない。草も木も地球もわたしも、もとのまんまだけれど、それを受けとめるわたしの心は、限りなく開けたのである。

 心が限りなく開けている感じは、最高の自由の実感である。小さく小さく自分を縛ろうとする自分が、いつしかいなくなっている。とすると、心は、わたしの小さな肉体を越えて、草に連なり、木に連なり、大地に連なり、全宇宙に連なっている。心は、わたしの小さな肉体を越えて、道往く人に連なり、数々の友に連なり、会ったこともない遠い国々の人に連なっている。

 現実の姿は、もとのまんまであるけれども、わたしには、すべてのものが、有と無のリバーシブルに見える。リバーシブル、つまり、一枚の布の表裏が、有であり、無なのである。

 花子に出会う。花子は花子という有であるけれども、話していると、ふっと花子は消えて、無になっている。

 梅の木は梅の木であるけれども、やっぱりリバーシブルで無である。紅梅は赤く赤く、見事に花聞き、花びらを散らせているけれども、無である。

 地球も、緑に青に茶に、見事に生命を息づかせているけれども、やっぱりリバーシブルで、無でもある。太陽も、燃えつづけているけれど、無でもある。

 わたしも、名前もあるし、デブといわれる体ももっているけど、いつでも無である。

無は、空ともいい、仏ともいう。虚無の無ではない。坐禅していると、それは、完全な調和として感じられる。

 有と無は、リバーシブルだから、いつでもひっくりかえすことができて、最高に便利である。有と思えば無。無と思えば有。あれよ、あれよとばかり、有は跳ねまわり、無は閑(しず)まりかえっている。

 どこへ行っても、いつでも、わたしと思っている有を、無にひっくりかえせば、全宇宙とたちまち一つである。

 有と無はリバーシブルという実感は、とにかく、最高の自由の実感である。

 人間として生れ落ちて以来、そこはかとなくもち続けてきた存在の不安というふうなものが、消滅した。なぜ、わたしは生れてきたの?なぜ、わたしは死ぬの?なぜ、なぜ?と問う必要が、しんそこなくなってしまったのだ。

 「禅」を求めての心の旅は、わたしを驚くほど安心させた。六道輪廻して、地獄に落ちてもいいじゃないの。地獄もおシャカさまの掌の上なんだから。

 といって、これは地獄の釜が熱くないということではない。熱いことは、さぞかし熱いだろうけど。

 雪が降っている。東京で吹雪は珍しいから、わたしは大喜びである。ありったけの物を着、山靴をはいて、参宮橋から、雪降りつもった明治神宮の森を散歩する。

 巨大な樹々の間を、吹雪はきっと吹きぬけ、葉につもった雪が、どさっと音を立てて落ちる。白い風と白い白いすべてのものの舞い。人っ子一人いない神宮の森で、カラスがギャーギャー鳴きわめいている。わたしは、大きな足跡をつくりながら、1歩1歩、歩いていく。

 ふと、老いる、ということを考える。

 渋沢秀雄さんが、91歳で亡くなる前、句を残されたそうだ。


 老いといふものの静けさ 夕月夜


 老いは、人間が若い頃もっていた欲をだんだんに捨てて、こだわりが一つ一つなくなって、ほんとうの閑けさを感じとれるようになるために与えられている贈物なのかもしれない。

 だったら、老いからのがれようと悩むことはないな、と思う。老いたら、老いた時にこそ、心の内なる閑けさにいたりつけばいい。

 ああ、年を取っていくのも、いい感じのことらしいな。年を取ったら、わたしはまた旅に出たいと思う。なんといっても、地球は限りなく美しい星なのである。

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